User:Makotoy/Jimbo WM2006KN transl ja

From Meta, a Wikimedia project coordination wiki

ジンボ・ウェールズの基調講演からの抜粋:


社会的なこととしては、ひとつには人物の特筆性ができると思う。去年、特に英語版のウィキペディアにおいて、存命中の人物の評伝に関するポリシーは大きく修正され、質を高くするということに大きな焦点があてられた。
これには、部分的には、ジーゲンターラー事件および類似の案件に対するコミュニティの対応という側面がある。ウィキペディアがよりいっそう大きくなっていくことを余儀なくされてきたのにあわせて、ふたつのことが起きている。ウィキペディアがどんどん重要度を増してきているため、スティーブン・コルバートのような有名な人々が自分のことをウィキペディアで探すようになった。しかしまた、プロジェクトがより大きくなってきたために、私たちはどんどん有名でない人々の記事を書くようになってきてもいる。だから、ジョージ・ブッシュについて好き勝手なことを書いても、そう、既に耳にタコができてしまった彼が電話で苦情をかけてくるということはないだろう。
私が何度も目撃しているお決まりのパターンというのがある。ある記事に行って何か気に入らないものを見たときに記事を白紙にしてしまう人々ことだ。そう。そして別のだれかが警告を出し、それでも彼らは白紙化を何度も繰り返し、ブロックされてしまう。そう。そうすると、その人々は法的な脅しをし、もう金輪際ブロックされてしまう。そしてこれはその人にとってとても嫌な経験だし、そもそも彼らは正しかったのかもしれないのだ。正しくなかったかもしれないけれど。たぶん、私たちが書いたものが気に入らなかったというだけのことかもしれないが、それでも、うまく対処したとは言えないだろう。
近年、いやつまりここ何ヶ月かの間にということだが、社会的なことに関するポリシーは進化してきていて、この問題にずっとうまく対処できるようになっていると思う。たくさんの管理者や経験を積んだ編集者たちが、この問題の典型的な例であるところの、裏付けのない主張に対してとても強い抵抗を示すようになっている。
だから私の気持ちとしては、感触としては、ウィキペディアにおける存命中の人々の評伝の部分は、最も難しく重要なものであるわけだが、より高い質に向けて本当に力強い前進をなしている部分だということだ。
そして昔日のうちにとどまっているかのような幾ばくかの、「なあ、だって、これはウィキなんだから、とりあえず・・」というような言い方をするような人々は脱落しつつあるようなものだし、それはたくさんの人々が、実際のところ、私たちは物事をちゃんとするということについて本当に重要な責任を担っていると発言するようになっているからなのだ。